印鑑ほか、人気タイトルが続々登場
銀行がその業界の企業と取引をするうえでの判断材料にするためです。
特定企業の経営実態を見るという仕事では、銀行には調査部のほかに審査部があります。
審査部は企業に対する融資などの与信を審査するわけですが、そこで調査部と審査部との支店勤務を経て、調査部に異動になったのですね.調査部時代に「鬼のN」の土台が築かれたと聞いています。
どのような仕事ぶりだったのでしょうか。
そうです。
当時の調査部は大変元気があって、自由開達な空気が満ちていました。
調査部内で、特定企業などの問題点について意見を述べるのは、部長や次長やグループリーダーといった上級者ではなくて、その担当者です。
どんなに年齢的に若くても、その担当者の意見が尊重されました。
もちろん、明らかに間違っているようなことがあれば、上司はチェックして間違いをただしますが、原則的に担当者の意見を聞こうという伝統が根付いていました。
だから、審査部長ですら、20歳代の若造だった私を呼び出して目の前に座らせ、「あの会社のあの点はどうなのだ」「あの問題点についてはどう思うか」などと尋ねるわけです。
当時審査部長のS外夫さんが調査部にやってきたことがありました。
巽さんは、私の机のそばに置いてあったゴミ箱に腰掛けて、「N君、間で意見が食い違って対立するというようなことも起きる。
その場合、S銀行には調査部の意見を尊重するという伝統がありました。
調査部は、いわゆる徒弟制で、先輩が後輩に1対1で仕事を教えるシステムになっていました。
後輩が担当の会社を訪問するのに同行し、後輩が書いた報告書のチェックなどをします。
調査部で訓代を迎えた私も、後輩を指導する立場になりました。
少し離れた席にいる後輩が報告書などを持ってくるのですが、ダメな書類は一目で分かります。
私がダメだというのは、大抵は、報告書の結論が暖昧なときでした。
結論が暖昧であるとは、つまり、調査が不十分であるということです。
そうすると、私はせっかち、大阪弁で言うところのイラチなので、いちいち書類を手渡しの会社はどうなっているのか」と私に尋ねるのです。
ペーペーの私は自分のいすに座っている。
相手は相当に偉い人なのにゴミ箱に腰掛けている。
「いや、そんなところに座られては困ります」と言っても、相手はまったく意に介さない。
平気な顔をして座って、熱心に質問を続ける。
当時の調査部はそんな職場でした。
ら見れば、書類が机を越えて飛んでいく。
担当者からすれば、「ダメ」という声とともに、書類が上から降ってくる。
そんなふうにして書類を戻された本人は悔しかったと思いますが、だからこそ早く一人前になろうと、ガムシャラに仕事を覚えるようになります。
私が調査部に異動になった1964年は東京オリンピックが開催された年で、日本中、オリンピックムードに包まれていました。
オリンピック需要を見込んだ企業の設備投資なども大変に盛り上がっていました。
ところが、オリンピックが終わるや、日本経済はその反動に見舞われてしまった。
もともと、オリンピックの開催が近づくにつれて、国内景気は過熱傾向にあったのに加えて、1964年になると、輸入の急増により国際収支が悪化を来しました。
そのため、当時の調査部では、具体的にはどんな仕事をしていたのですか.日銀は金融引締めを行なって国内景気を冷やしにかかったのです。
その後、国際収支の改善に伴って、日銀は金融緩和に向かいましたが、民間設備投資は停滞し続けて、1965年になると、不況が深刻化しました。
これが昭和側年不況と呼ばれる不況です。
大型倒産が相次いで発生して、不況は構造不況へと発展していきました。
それまで好業績を享受してきた石炭、繊維などの会社や自動車産業、海運などの業界では企業の合併、再編が相次ぎました。
構造不況を脱するには、構造改革しかありません。
大阪商船とM船舶が合併したり、日産自動車とプリンス自動車が合併したり、激しい動きが産業界に訪れました。
調査部員として、私もその荒波の中にいました。
とりわけ繊維業界には随分と鍛えられました。
当時、それまで好調だった紡績は、完全に構造転換の曲がり角に立たされてしまいました。
地方から集団就職で都市部に出てきた女子生徒が一番多く就職したのが紡績会社でしたが、その頃から紡績業界は不況産業入りしていたのです。
しかも、大阪には繊維、紡績会社が多かった。
私は、それらの数多くの会社に連日入り込み、調査活動を続けていました。
ていたため、その下でいろいろな作業をしました。
繊維業界ではありませんが、今でも強く心に残っている会社があります。
融資をしないと倒産してしまうという状態の会社があり、融資の依頼を受けて、私が調査を担当しました。
借り入れに担保など必要がないほどの優良会社だったのですが、調べていくとある問題が見つかった。
会社側は当初そのことを隠していたのですが、調査を続けていくと、やはりおかしい。
そこで、「どういうことになっているのでしょうか。
問題ですよ」と会社側に指摘したのです。
すると、しばらくしてから、その会社の担当専務が、涙を流しながら「あなたのおっしゃるとおりです。
すべてをNさんにお任せします」と言ってくださった。
それにより問題の内容も正確に把握でき、その会社の技術力や経営実態を調査した結果、私は「救済のために融資すべき」という結論に至りました。
私は、この会社は必ず将来、この問題を解決して立ち直って、いい会社になるだろうと信じていた。
だから、そういう判断を下すことができました。
問題を指摘することと、相手を信じることは相容れないことではない。
相手を信じるからこそ、厳しい指摘もできるのです。
そこで直ちに、一連の経緯と自分の判断を部長に報告したところ、部長は即座に「分かった。
専務のところに行こう」と、私を伴って席を立ちました。
そのときの担当役員だった専務が、Iさん。
Iさんは私の説明を聞き終わると、こう言いました。
くなったらダメだぞ」私に内定を出したときと同じように、I氏の判断は、そのときも即決でした。
その会社は、今ではその分野では世界レベルのトップクラスにまで成長しています。
安宅問題の処理に奔走分でもそのような自覚はありますか。
なぜ、こうなるのかなと思うことがよくあるのですが、修羅場と言えるような状況に巡り合うことは多かったですね。
私自身、平穏無事な環境よりも修羅場のような緊張感のある状況に身を置くほうが好きです。
実際、自分にはそのほうが向いていると思います。
最初の大きな修羅場は、総合商社、安宅産業の経営危機問題です。
の一角を占める企業でした。
安宅産業の主力銀行だったS銀行が安宅産業の異常な事態を察知したのは1975年状況に陥ってしまっていることが判明したのです。
簡単に説明すると、安宅産業の子会社である安宅アメリカがNRCというカナダの石油精製会社に対して行なった巨額の融資が焦げ付いて、資金繰り問題が生じてしまったというのがこの事件の発端でした。
時代背景としてあったのは1973年秋に発生した石油危機です。
安宅アメリカの投資が無謀と言えるほど巨額なものだったのに加えて、その投資の前提が完全に狂うような石油危機が発生してしまったことで、一気に、安宅産業本体まで揺るがしかねない危機に発展してしまったのでした。
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